黒い女(ひと)
マダム・マールはピアノの名手だった。
ヘンリー・ジェイムズの小説「The Portrait of a Lady」と同名の映画では、彼女がシューベルトの即興曲(op90−4)を弾いているところに、主人公のイザベルが登場する。
16分音符で一気に駆け下りる華やかな出だしだが、重厚な和音の連なりのフレーズや中間部の扱いで弾き手の個性と技量が出る。
古典的な枠の中の、穏やかな自己表現。
シューベルトは親しみやすく、どこか森の香りがする。
イザベルはこの後、マダム・マールの奸計に陥ちる。何の後ろ盾も無い、魅力的なマダム・マールの内面の成り立ち、広間の後の小部屋の存在がイザベルには見えなかった。
如何にも悪人、というタイプではない。
が、意思を秘め的確に行動し、躊躇うことなく人を陥し入れる。
成熟した悪、というものがある。
人々の幾重にも重なる内面が時を経て、或る社会を形作る。その古びた堆積物は歴史と呼ばれる何かだ。
自由と独立を愛したイザベル。
マダム・マールの奸計に陥ちてから、イザベルの本当の人生が始まったのかもしれない。
ラヴェンナ
モザイク画が見てみたくて、ラヴェンナに行った事があった。
広場と大通りが一つだけの、小さな街。
ホテルに荷物を置き、ガラ・プラキディア廟を探しに出たが、なかなか辿り着けない。
「Mi scusi madam. Dove il Mausoleo di Galla Placidia?」(ガラ・プラキディア廟は何処でしょうか?)
茶がかった金髪の上品な老婦人に尋ると、
目の前の建物がそうだけど、と面白そうに告げられた。
古い時代の煉瓦に覆われた地味な外観は、まるで納屋のように見えた。
もちろん、目印も標識も無い。
入口を探し横の小道に入ると、夕暮れ時の薄明かりの中、寝ぐらに戻る鳥の群れがガラ・ プラキディア廟を背に、一斉に旋回をし、何処かへ飛び立った。
旅の途中だったが、遠くまで来たのだ、とその時初めてそう思った。
マリー・ローランサン
曖昧な雰囲気の絵、がこれから書く内容に合っているように思い、ローランサンの絵を久しぶりに見た。
ピンク、ブルー、グレー、黒。
憂鬱な暗さが、色調の甘さに溶け合う。
ワットーの「シテール島の船出」にも同じ気配が漂っていた。
透明な快楽と憂鬱な気配。
モーツァルトの音楽にも通じる、この雰囲気。
「Ti vo’la fronte incoronar di rose」
(あなたに薔薇の花冠を被せたいわ)
とは、フィガロの結婚のスザンナのアリアの一節。
花冠を掛ける事には性的な意味が隠されている。
木の枝に花輪を掛け、誤って水に落ちたオフィーリア。
オフィーリアは罰を受け死んだが、モーツァルトのロココの饗宴は、現代まで続いている。
快楽の上澄みは、繊細で、一瞬で消えてしまう。
一瞬の煌めきを掬う事ができた人達。
彼らはシテール島に船出をし、そこで永遠に生き続ける。
シェルタリング・スカイ
ポール・ボウルズの小説「The Sheltering Sky」の中で、touristとtravelerの違いについて主人公の二人が会話を交わす場面があった。
どう、違うのだ、という問い掛けに、
「ツーリストは元の場所に戻れるけれど、トラベラーは戻れない。」
と答える。
ベルナルド・ベルトルッチの同名の映画では、直線的な肢体をごくシンプルな服装に包んだデボラ・ウィンガーが、この答えを「あら、そうなの?」と、涼し気に聞き流していた。
旅だけではない。些細な事でも、魂の深い部分に触れてしまう出来事に遭遇すれば、その人は、二度と元の場所には戻ることができない。そう思う。