黒い女(ひと)
マダム・マールはピアノの名手だった。
ヘンリー・ジェイムズの小説「The Portrait of a Lady」と同名の映画では、彼女がシューベルトの即興曲(op90−4)を弾いているところに、主人公のイザベルが登場する。
16分音符で一気に駆け下りる華やかな出だしだが、重厚な和音の連なりのフレーズや中間部の扱いで弾き手の個性と技量が出る。
古典的な枠の中の、穏やかな自己表現。
シューベルトは親しみやすく、どこか森の香りがする。
イザベルはこの後、マダム・マールの奸計に陥ちる。何の後ろ盾も無い、魅力的なマダム・マールの内面の成り立ち、広間の後の小部屋の存在がイザベルには見えなかった。
如何にも悪人、というタイプではない。
が、意思を秘め的確に行動し、躊躇うことなく人を陥し入れる。
成熟した悪、というものがある。
人々の幾重にも重なる内面が時を経て、或る社会を形作る。その古びた堆積物は歴史と呼ばれる何かだ。
自由と独立を愛したイザベル。
マダム・マールの奸計に陥ちてから、イザベルの本当の人生が始まったのかもしれない。